有限の尊さと 永遠という希望
今日から『令和』の時代に入りました。
最近、日常では、どちらかというと、元号よりも西暦を使う機会が多くなったような感じがしていて、
元号が改まっても、自分の中では、あまり変化はないかな…と思っていました。
ですが、ここ数日、この30年間の出来事を振り返るテレビ番組を見ていたら、それはそれで、なんとも言えない、感慨深い気持ちになりました。
平成という、一つの時代が終わるんだ、と。
社会人になった年に平成になって、その後、夫と出会い、結婚し、海外で暮らし、新たな人と出会い、大切な人との別れもあり…、そして、今は人と人の縁を繋ぐ仕事をしている。
自分にとって、人生のターニングポイントが数多くあった、30年だった。
そんな風に、自分の人生を「意味のあるもの」と感慨深く思えるのも「一つの時代が終わった」という紛れもない事実がそうさせるのかと思います。
でも、それは、「時代」に限ったことではなく…。
すべてのことが「有限」で、必ず終わりがある。だからこそ、人はその限られた時間に意味を感じ生きていけるのかもしれない。
なんだか、そんな気持ちにもなりました…
以前、夫が唐突に、こんなことを言ったことがあります。
「もし、天国というものがあるのなら、こんな感じだと思う。自分が先に死んでも、こんな感じでちょっと待ってから、一緒に、入国審査に行くみたいな…」
なんのことか?分からないと思いますので、そのシチュエーションを説明しますと…
インドに駐在していた時に、ヨーロッパ旅行に行った時のことです。
現地の空港に早朝に到着して、飛行機を降りてからイミグレーションに行く途中でトイレに寄り、夫が先に出て、半分寝ぼけながら、トイレの前でちょっとの時間だけ私を待っていた時のことで…
初めての国、初めて見る空港で多少の不安はあるものの、旅行という高揚感はある…
そんな情景と感覚が、夫が思うところの「天国」だった(?)そうです。
もし夫が先に逝っても、せいぜいトイレの前で、少しの時間、私を待っているぐらいの感じじゃないのかと…
夫婦というものは、そういうものじゃないのかと…
空港のトイレの前で、待っている時間に例えられるのも、複雑な感じですが(笑)
でも、結婚して、夫婦でいられる時間にも、必ず限りがあります。
普通は、どちらかが、必ず先に逝ってしまう。
でも、それは、旅行で行った初めての国の空港のトイレの前で、ちょっとだけ待っているくらいのこと。そして、それから一緒に入国する。そんな風に考えれば、それは楽しいことなのかもしれない。
人の命は有限だけど、夫婦には、永遠のその先があるのかもしれません。
だったら、もっと楽に、限りある「今」を生きていける。
意味のあるものにしたいと思える。
平成が終わっても、令和が始まるという、希望と同じように。