希望を持つことで解放されること
世の中不公平なことが多いです…
生まれながらにして、容姿が良ければ、なんだかいろいろ得するし
裕福な家に生まれれば、お金の心配もなく、好きなものをなんでも買えそうだし
帰国子女だったら、英語にあまり苦労することもないだろうし
いつも自然に、笑顔が作れるなら、誰からも愛されるだろうし
運さえよければ、幸せな結婚ができるだろうし…
(恨みつらみの呪いの言葉?みたいですが…笑)
まあ、実際のところ、現実世界というものは、決して公平なことばかりではなくて…
でも、泣いても叫んでも、飛んでも跳ねても?、それは変わることは無くて、それが分かっているから、誰もがじっと我慢して、辛抱して、耐え忍んでいるのかと。
(話しは変わりますが…)
ちょっと前のデータなのですが、2017年にユニリーバ社が世界十三か国の10代の女性に「自分の容姿に自信があるか?」という調査を行った結果、日本は93%の女性が「自信が無い」と答え、断トツの最下位でした。
(ちなみに最も自信があった国は南アフリカでした)
その理由について、いろいろな人が、いろいろな見解を述べているのですが、その中で自分的に「なるほど」と思ったのが…
“同じような調査で「将来の希望があるか?」と聞いてみたところ、「ある」と答えた上位の国は、「容姿に自信がある」と答えた上位の国とほぼ同じで、そして、残念ながら日本は、この「将来の希望」といった調査でも「容姿」と同様に最下位だった。なので、そこから考えられるのは、将来の希望が持てないから、自分の価値観が見出せなくて、自己肯定感も低くなる…ということなのではないか?”といった意見でした。
確かに、「希望がある」と明言できるということは、「自分のアイデンティティ」が、それなりに確立できている訳で。なので、「自分は自分、他人は他人」と割り切ることができて、「容姿」についても、他人と比較しないでいられるから、自信が持てるのかと…
(私の推測ですが…)
他人を羨やまず、不公平だと思わずに、生きていくことの方が、実際には、難しいことなんだと思います。
でも、そんな、せんないことから解放されたいのなら、それは「希望」を持つことかもしれません。
それも、できるだけ、具体的で、明確な「希望」を。
少しだけ、勇気を出して「希望」を持ってみること。
大事なことなのかもしれません。