婚活ノート。イー・マリッジ代表 山領有紀子のブログ

インドネシアから新宿、そして三河へ ~written by H. Yamaryo Vol.4

 

こんにちは、イー・マリッジの山領 均(やまりょう ひとし)です。

 

前回は、インドネシア赴任について書かせていただきましたが、今回は、帰任後の生活について書きたいと思います。

 

婚活とは直接関係の無い話になってしまい申し訳ありませんが、お付き合いいただければ幸いです。(すみません)

 

 

約3年間のインドネシア生活を経て、私たちは東京に戻ってきました。

 

実は、結婚3年目に、私たち夫婦は一念発起して東京の江戸川区、都営新宿線の船堀にマンションを購入していました。

 

ですが、それから直ぐにインドネシア赴任が決まったので、そのマンションには僅か8カ月暮らしただけでした。

 

赴任中は賃貸に出していたのですが、帰任のタイミングでは、まだ契約期間が残っていたので、その間は、新宿区市ヶ谷にある社宅に入ることになりました。

 

その私の会社は、基本、独身寮や社宅といったものは全くなく(多少の住宅補助的なものはあったと思いますが)、唯一、海外からの帰任者だけ2年間限定で、その社宅に住むことができました。

 

(余談ですが、そんな会社の福利厚生の事情もあってか、私のように結婚したら結構早めに(仕方なく)、家を買うという社員も多かったと思います)

 

 

帰任後は、私は元の職場に戻り、以前とほぼ同じ仕事をしていました。

 

ただ、どこかに「物足りなさ」を感じるようになったのも本当のところで、そんな中、考えるようになったのが「転職」でした。

 

当時も今と同様、転職は既に一般的なことではあったのですが、まだ自分の世代的にというか、親の考え方が影響していたのか、少なからずの「抵抗」があったのも事実でした。

 

ですので、まずは、その余波を最大限受ける当事者になるであろう妻に、正直に自分の気持ちを伝えました。

 

妻の答えは「いいんじゃないの」でした。

 

有難かったです。

 

 

それから約半年、転職活動をしました。

 

希望する条件は、もっと広く海外に関わる仕事ができること。

 

それ一択でした。

 

(以前のブログでも多少触れましたが、私が勤めていた市ヶ谷にある某印刷会社は事業部制で、ほぼ異動もなく、将来的にまた海外赴任することがあったとしても、その事業部が管轄しているインドネシアのみでした)

 

 

私が、最終的に決めた転職先は、愛知県の自動車部品メーカーでした。

 

初めて面接で訪れたその街の印象は、ただただ「殺風景」。

 

濃尾平野に広がる、どこまでも平たい土地と、どこまでも続く空、そんな日本の原風景の中にある、典型的な地方駅を降りると、突然、目の前に現れる、違和感すら覚える巨大な建物群が、その会社でした。

 

 

面接で「君は東京の新宿に住んでいるのか?新宿なんて大都会に住んでいる人が、こんな三河の田舎なんかで暮らせるのか?!」と言われたことを、今でも強烈に覚えています。

 

 

2002年の春から、私たち夫婦の愛知県での新生活が始まりました。

 

結局、江戸川区のマンションに戻ることはなく、見ず知らずの縁もゆかりもない土地で暮らすことになりましたが、少なくとも、その時の私は希望しかありませんでした。

 

妻の本当の気持ちはどうだったのかは分かりませんが、妻は妻で名古屋のインテリアの学校へ通ったり、フラワーアレンジメントのレッスンを受けるようになったりと、それなりに新生活を楽しんでいるようには見えました。(たぶん)

 

 

その私の新たな会社は、愛知県にある某自動車メーカーのグループ会社でした。

 

余談ですが、そこで働いてみて、初めて知ったことを挙げますと。

(ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが)

 

・某自動車会社の名を冠した「〇〇〇カレンダー」で全てのグループ会社、系列、関連会社は動きます。土日休みの週5日制で祝日は休みではありません。(年3回、1回10日前後の大型連休のみ)

 

・「こんな三河の田舎で暮らせるのか?」と面接では言われたものの、実際には、技術、事務、営業系の社員の半分以上は、地元以外の、関東、関西を中心とした全国から来ていました。

 

・中部地方では「〇〇〇グループの社員」というだけでモテます。

 

*既に結婚していた私にとっては、何の恩恵もありませんでしたが…、今でも愛知県の結婚相談所では「〇〇〇グループ社員限定 婚活パーティー」といったものをよく見かけます。(巨人は別なのかもしれませんが、ヤクルトやベイスターズの東京圏にある球団よりも、地方の広島カープや中日ドラゴンズの方が、その地元では絶大な人気を誇るのと同じ仕組みだと思います)

 

 

その転職によって、給与や福利厚生等の待遇面が大幅にアップしたことは良かったことですし(某印刷会社をディスっているわけではありませんが)、それ以上に、転職をしなければ一生気づかなかったかもしれない、「今とは違う生き方」を見つけることができたこと、そして、それに「自信が持てたこと」も、私にとっては本当に大きなことでした。

 

もちろん、当初の目的であった、広く海外に関わる仕事もできるようになりました。

 

三河の片田舎でしたが、東京のど真ん中にいた時よりも、遥かに、世界が近くに感じるようになりました。

 

 

 

←前回、海外駐在生活 インドネシア編 ~written by H. Yamaryo Vol.3 は、こちら

次回、The world’s local company ~written by H. Yamaryo Vol.5 は、こちら→

 

 

 

 

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