イチロー選手引退に関しての雑感
昨晩、イチロー選手が引退を表明しました。
夜中の1時過ぎまでやっていた記者会見を見ていましたが、
なんとも言えない感慨深いものを感じ、本当にお疲れ様でした!という気持ちになりました。
その記者会見の中で、特に印象に残ったのは、最後の質問に対しての答えでした。
(すみません。ただの、一野球ファンが論評する立場にはないのですが…)
「アメリカに来て、メジャーリーグに来て……外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは……外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね」
記者からの「孤独感はずっと感じてプレーしていたのか?」といった趣旨の質問に対しての答えでしたが、とても印象に残りました。
イチロー選手が、真に意図する意味で捉えてられてはいないかもしれませんが…
私にとって「外国人になったこと」いう部分は、心に刺さる言葉でした。
自分のことを、引き合いに出すのは大変恐縮なのですが…
20年近く前に、夫の転勤に伴い初めて海外に住んだ時に、自分は「外国人」と強く感じたのを覚えています。
最初に住んだのはインドネシアでした。アジア通貨危機直後のことで、今よりも経済的にも物価面でも、日本との格差を感じられる時期でした。
自宅にはメイドさんと運転手さんがいて、平日は駐在員奥さんたちとゴルフに行って、高級ホテルのレストランでランチといった生活でした。(当時、日本人が安全に行けるところが限られているという事情もありました)
実際には、生活で大変なこともあったような気もしますが、良い意味で特殊な「外国人」でした。
その後、屋上プールで有名なマリーナベイサンズを建設中だった頃のシンガポールに3年間、そのあと続けてインドで3年間暮らしました。
年々、日本とアジアとの格差が縮まってきたこと、また「お国柄」の違いもあったとは思いますが、シンガポール、インドと移っていくうちに、インドネシアで感じた、良い意味で特殊な「外国人」というものから、普通の「外国人」、ただの「外国人」と変化していきました。
それでも「外国人」であることに変わりはありませんでした。
「外国人」であるということは、決して窮屈というものではありませんでしたが、良くも悪くも、「マイノリティー」を、感じさせるものでした。
たぶんイチロー選手のいるアメリカは、アジアとは違った難しさがあるでしょうし、「孤独」というものを、より意識する場面があるのかもしれません。
今はもの凄い勢いで「グローバル化」の世の中になってきています。
学生時代に留学したり、仕事で海外駐在したり、そういったことが、ごく普通に、あたり前になってきています。
そして、そこで自分が「外国人」であることを自覚する機会を持つこともあります。
でも、真の意味での「グローバル化」は、国や人種を問わず、それをきっかけに、イチロー選手のように「人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり」することができるようになれるかどうか?
それに尽きるのではないでしょうか。
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